祈りとものさしとアートと

自分のものさしを発見する場所

花戦さ、美は平天下に続く

続いていると言ってよいのか、のらりくらりと書いていく。今日も何を書くかは決まっていない。今思っていること。「花戦さ」という映画を観ながら書いている。習い事を始めようかどうか迷っていて、一旦始めると時間を縛られるような気がして、決めかねている。自由でいたい。織田信長のセリフに「武人たるもの茶と花を、人の心を大事にせよ。それこそが人の上に立つ者の道じゃ。」面白そうな映画だ。京都六角堂の初代池坊の話。信長の時代から花を生ける専門職があったのか。演歌を一節歌うように、和歌を詠むシーンも出てくる。祈り、日記(内省)、芸術。それを基盤として生きていく。

芸術とは何か。私にはまだ迷いがあるのではないか。自分なりにやりたいことをやって来て、自分のために生きることへの関心はもうないと思っていたが、本当にそれでいいのだろうかという問いかけが残っているのかもしれない。華道は日本の伝統文化。夫は主に風景を描く水彩画家で今は世界中の、主に西洋の街並みを描くことに意欲を燃やしている。私は全力で夫をサポートしたいと願っているが、習い事をすることが果たして夫の助けになるだろうか。自分の楽しみのためだけにやろうとしているのではないか。意味を求めすぎているだろうか。

「一輪にて伝わるは、多くより心深し」素敵な世界観だ。自分の中で西洋の豪華絢爛さと東洋の無形無限の自在さ、その二つの美の形が溶け合わずに分離しているようなのだ。「金か黒かどちらが美しいか」「どちらもそれぞれに」次のステージに上がりたい。どちらも、というのはどういうことなのか。同じ次元にいては解決されない。「花」もしかすると、この謎を解く鍵なのか。東西を問わず。東でも西でもないもの。愛。花のように、愛らしい。本来無一物

何に囚われていたのだろう。どちらが、などどうでもよいことに拘っていた。いいと思うものは全て取り入れたらいい。それは他でもない日本の、神道の思想だ。仏教は東洋思想というより、全人類に共通の執着の源泉である「心」を修めるための叡智である。心を錬磨しながら、共生する。それぞれのよさを認め、共に力強く生きていくこと、それは行動することであり、学問し感性を磨くことである。この映画を観ていてそんなことを感じた。