祈りとものさしとアートと

自分のものさしを発見する場所

宗教について考える

そろそろ新しい記事を書く時期のような気がする。悶々とした日々が続いていたので、自分としばし向き合うことにしてみた。おそらく原因は心身の刺激が少ない、つまり暇な時間を持て余したことによるやる気の減退や苦しみ耐性の低下だ。ともあれ、宗教について最近考えさせられたことがあったので書いてみる。宗教のイメージそのままのおぞましい体験をしてしまったので、どうしてもそのままにしておけなくて考察するに至った。宗教があんな汚いものであるはずがないからである。人間同士の争いでは、しばしば恐ろしく醜いことが起こる。戦争や大量虐殺、人身売買など世界のあちこちで予想もつかないような残虐なことが日常的に行われているのだろう。カルト宗教やそうでなくても危うい宗教団体のイメージはそれに重なるものがある。教祖様を崇めたり、組織や建物や人格化された対象が中心となっている。宗教には心の安寧をもたらす役割があるため、その範囲内ならもちろんよいのだが、非合理的な内容に触れることを許しているという点で、過去のトラウマやよりどころのないネガティブな感情をそこ(霊的存在や現象)に当てはめて、他人を攻撃するという悲惨な行動に出る人もいて、感覚的に美しいものを愛でる時と逆の醜さおぞましさを感じざるを得なかった。しかしながらこの体験が宗教とは何かということを考えさせてくれるきっかけとなった。宗教とは先ほど述べたような心の拠り所となる癒しの側面と、合理的な説明のつかない非合理的な世の中の事象がもたらす知的あるいは情的緊張を解消してくれる側面がある。(コトバンクより)例えば、死後はどうなるのか、なぜ生まれたのかなどの知的緊張や、神がいるならばなぜ悪が栄え善が追いやられるのかなどの情的緊張などである。また時間や空間の概念を説明できるのも宗教であるという。今がどこへ向かっているのか、永遠に回り続けるのか(永劫回帰)どこかで破局するのか(終末観)など。神聖と世俗が属する空間(天国と地獄など)があり、その二つが交替しながら進む方向が時間であるという考え方。だとすれば、短期間かもしれないが人類の歴史を振り返った時、確かに神(革命)と悪魔(世俗化)が交代しながらも、現在は物質的な段階であるが底上げされてきている、つまり時間と共に全体の魂なるもの(霊的・肉的存在)が向上しているし、宗教から生死を捉えた時に、この魂の練磨ということが神の真意ということになる。ただし、近代の世俗化によって個人主義(我よし)・合理主義(何でもできる)の短所が増長され、我と慢心が全面に出てきているのも確かである。人生を宗教の側面から捉えてみると、何事にも陰陽両面があるとすれば、陰の面がこの人間主義のデメリットである我と慢心に陥らないことであり、陽の面が魂の成長、実際には具体的に何を達成するかというより、どのような態度で取り組むか、いかに前向きに楽しんで、もしくは苦しみに耐えて取り組むことによって魂を成長させるきっかけを増やすかということが生きる目標ということになる。同時に、幸福とは何かを考えた時に、神が存在するならば必ず先に幸福があるので、今のどんな苦しみも幸福に含まれるということになる。つまり、快と不快は幸福と別の軸にあり、苦しみは幸福になるための過程である。必ず幸福になるという神のセオリーを信じることが宗教でもある。そのようにしてコントロールのできない苦しみを受け入れることはありのままの現実を受け入れること、ごく自然なことであり、それに抗おうとすれば余分のエネルギーを消耗することになるだろう。以上が宗教についての考察である。不合理な世の中であるからこそ、やはり宗教は必要なものであり、人類の最大級の叡智であると私は考える。