祈りとものさしとアートと

自分のものさしを発見する場所

アート思考とは

アプリを活用し始めてからサクサクと行動が進むようになった。成し遂げた後にボタンを押すというたったこれだけの作業が嬉しい。そしてポイントが貯まっていき、貯まったポイントは好きなことに使う。美術館に行くやカフェでゆっくり過ごすなどその都度自分で創り出せる。自分で生活を設計しているようで面白い。今日はアートとは何かということに少しだけ踏み込んでみたい。昨日日曜美術館で建築家の白井晃一さんの回を見ていて、漠然と感じるものがあった。謎解きというか、宇宙を思わせる、源のような、見たことがないわけでないのに唯一無二であるような、何かにハマりこむ時に似たような感じがした。世界観があるとはよく言うが、おそらくそれはオマージュが沢山込められているという意味もあるのだろう。それに加えて情熱、というかそれしか頼るものがないというような孤独感を代替したエネルギー。思想が作品になる。具体的にはどういう意味だろう。ものの見方が斬新であるということではないか。今日ピカソ作品の凄さについての動画を見て、写真に映る映像と人間の脳に映る映像は異なるということを知って驚いた。これは最近気になっていた、いかに生きるべきかという問いにも繋がっているような気がする。環境が一気に変わった時に感じる高揚感と同じだろう。確かに言われてみれば、人間は様々な方向から見た対象の全貌(真正面図)を脳の中で統合して初めてそれが何かを認識できる。対象物の一方向だけを見てそれが何か特定しているのではない気がする。(一方向だけ見つめているとそれが何か分からなくなるゲシュタルト崩壊の現象からも説明できる)おそらく過去に見た真正面図(二次元)の記憶を貼り合わせて、それが何かを特定しているのだろう。写真のような一視点からの映像をさらに脳の中で多視点の映像に変換して認識しているということになる。脳内の情報処理は当然一平面だけではなく、多平面あるいは無数の点の集まりのように同時並行に情報を折り重ねることができる。物事を考える時に一つの情報ではなくあらゆる情報を組み込んで表現すること。それは当然のようであって、実は平面的になっていることも多いのではないか。昨日書いた予定から予定という一つの視点でしか捉えられなくなっている”慣れ”現象。近代の特徴である合理主義、個人主義というのも視点を最小化していく方法の一つであろう。楽しむとか味わうというのはこの逆方向、いかに多視点を浮上させ同時に感じることができるかということではないだろうか。今日の話をまとめると、アート(思考)とは何かということ。それは技術を磨くという表面上の行為の裏側にあって、どうすることもできない非合理性を表現することである。また視点を縮小していく合理主義からの脱却であり、多彩な視点を持ち有機的に結びつけ、現状の課題を超越し、魂を成長させる手段である。