祈りとものさしとアートと

自分のものさしを発見する場所

アプリを使い始めよう

文章を書くということを日課にしたいので今日も書く。つまり書きたいテーマがあるからではなく書くために書く、日記のようなもの。確かに文章を書くと言葉を話すのと同じ脳の回路を使っているような気がする。家で過ごす時間が多くあまり話す機会がないのでトレーニングとしても必要かもしれない。日々を意欲的に過ごすということをこれからの人生のテーマにしたいと思う。昨日宗教について考察したところ、人生の進むべき方向というものが少なからず見えてきたからである。もうすぐルームランナーが届く。筋トレは始めているが、ランニングも始める予定である。アプリを活用して日課表のようなものを作り、達成するたびにチェックしてそれをさらにポイント制にしてポイントが貯まったら好きなことをするという仕組みにした。二つのアプリを使っているので一つにまとめられるといいのだが、早速始めていてなかなか面白い。こうでもしないとやらなければならないことに囲まれる悲惨な日常に埋もれそうな危機感を感じたことと、以前と同じことが楽しめなくなったといううつ病の始まりのような症状が現れ始めたのでやるしかないという状況である。人間って機械のようには行かないものだと改めて感じる。体や心を盛り上げないと勝手にエネルギーが閉じていき、生きづらくなってしまう。文明の副作用だ。怠けてはいけないというのは、精神論ではなくもっと肉体的に証明できるものなのではないだろうか。文章を書くのもなかなか面白い。そういえば達成項目の一つに楽しいことに遭遇するというのを設けた。アンテナを張っていた方が何か面白いことに遭遇するかもしれない。最近はめっきり面白いと感じることが減ってしまった。いわゆる慣れというやつだ。いつも思うのだが何とも言えない虚しさと悲しさを感じる。慣れということについて少し深掘りしてみるか。慣れにもメリットデメリット両面ある。ただそれだけのことなのだが、慣れのデメリットには「我と慢心」という人生にとっての猛毒要素が入っているのが怖い点である。慣れを避けるために生きるというのは人生の目標に十分なり得る。結果を残すためではなく、人生を清浄に錆びつかせないようにするために、この慣れの悪い側面への対処をしなければならない、どんなに忙しくても。ある本に一日毎に生まれ変わるように生きるというのがあった。例えば◯月×日に〜をするという予定があったとして、それが終わったら次は〜、次は〜と常に予定に縛られ、永遠に今でないものに追われているという慣れ現象から脱却し、人生の時間を予定で区切るのではなく、今日一日で区切っていく。今日一日がどのように始まり終わるのか、いかに充実させるのか、楽しむのか、真剣にそう信じて生きること。なるほどと思う。気づかないうちに当たり前のように予定で時間を区切って捉えている。下手をすれば永遠に今を見ないまま人生が終わってしまうことになる。それは生きていると言えるのだろうか。妄想を見ているようなものではないのか。こうやって文章にすることで新たな気づきが訪れる。やはり宗教は外ではなく自分の内側にある。ただし昨日の大河ドラマのように、必要悪の存在に対しては同情する部分がある。必要悪とは神の視点から見れば幸福に含まれる一時的な苦しみのようなものである。残虐行為にしか思えないこともあるが、確かに今から過去を見た時にその悪行があったから今(の幸せ)があるということが言えてしまう。そのような必要悪に巻き込まれることが人生には往々にしてある。そしてその苦しみに効果的なのが、お金で解決できることなのかもしれない。さて今日は美術史を学び、水彩画を描き、筋トレをし、文章を書き、料理をし、整体術を学び、充実した1日に向かっているような気がする。自分の人生を充実させること。自分は社会に貢献できるような才能を残念ながら持ち合わせていない。言い訳でもなく、何をしても足手まといになることが本当に多く、誰にも迷惑をかけない一人でできる仕事、そして家事や事務作業のように必要な仕事、勉強することが好きなので興味があることを学ぶ、それをやることで精一杯である。そして少しでも楽しみながらやりたい。怒られようがそれしかできないのが現状である。才能があったらあったで実は大変そうだし、私はこれでいいのかもしれない。後ろめたい気持ちが常に付き纏っているのだが。自分を否定して責め続けても何のメリットもないような気がする。独り言のようになってきたので今日はこの辺で。