祈りとものさしとアートと

自分のものさしを発見する場所

創作とは

着々と書いていく。美術史を学んでいくことにした。時代背景や絵画の様々な表現方法・見方を知ることができるので面白いし、建築やインテリア、庭なども同時に楽しめる美術館巡りなど広がりがありそうだ。歪められたり廃絶されたりしながらも、時代が下って文化や歴史が継承されるほど、折り重なるオマージュがアート作品に反映されるのだろうか。つまりアートは永遠に発展し続ける。科学技術が発展し、ルーティンが目的ではなく手段になっていく時代にあって、創造の概念が革新されるべきではないだろうか。自分への問いかけでもある。自分の中での創作行為がかなり偏っているような気がする。学問の概念がそうであるように。既成の知識を記憶するというコンピュータに代替されるような学習の仕方は、何かが欠落している。初学者にとってどの情報が必要かということは予めわかるものではなく、偏りなく学ぶというのが定石ではある。果たして本当にそうだろうか。倫理は、社会とともに変化するという前提のもとに、歴史や古典などから満遍なく学ぶ必要があると思う。もしかするとその対比として自分らしさというものが浮き彫りになるのではないだろうか。過去の遺産を大切に保守する立場でありたいのか、新しい時代を作るべく革命を起こしたいのか、自分はそのグラデーションのどの位置にいたいのか。リーダーとして先頭に立つのか、リーダーの保守役を務めるのか、など、やはり性格や志に合った立ち位置というものがあるように思う。”志”の浅さに悩まされることが時々ある。”自分を信じる力”と置き換えてもいいだろう。それはおそらく肉体と同様、弛まぬ努力で鍛えていくものなのだろう。今メンタルトレーニングの勉強していて、自己分析(心理特性と心理状態)、目標設定、セルフコントロール(音楽やリラクゼーションなど)、イメージトレーニング(プラス思考、情報入手など)が効果的であるとのこと。早速アプリを利用して日課にすることにした。自分の意に反することをしなければならない時にどのように思考を切り替えるのか。情緒を乱さないか。そういう所を鍛えていきたい。まず現在位置を確認し、目的地を設定し、ルートを考える。この目的地がフワっとしている状態だ。RPGのように、自分の城を築いて国を治めるという目的の人もいれば、キノコ採集が目的の人もいれば、ただ遊び回ることが目的の人もいれば、善悪が混在する混沌の世界の中で、こうあるべきという規範のようなものは存在するかもしれないが、必ずしもそうしなければならないということもない。ただ楽しむ者が強いという真理だけがある。そういう世界に放り込まれた(もしくは自ら飛び込んだ)のだとしたら。ピカソキュビズムという描き方を確立したように、その人が見たまま(どの面を100%として見たか)を忠実に再現するような世界に今いるのだとしたら、私はどのようにこの世界を見たいだろう。アポイントからアポイントに移るだけの生き方ではなく、自分で設定した目標を今日どれだけ達成できたかを楽しむように生きて、辛いことは神様の視点から見れば幸福のうちであると考え、自分以外の原因で起きた失敗には反発し、次は上手くやれた自分の姿をイメージし、悪が蔓延る世の中だと捉える見方もある中で、美しい自然に囲まれた清浄な世界をイメージし、そこには他者から見られる自分は存在せず、天(神様)のように見る自分しかいない。そして、世界に貢献する人の応援をしたい。残念ながら現実に直接伸びる手を私は持ち合わせておらず、現実に対して慎重な対処をし続けなければならないかもしれないが、パートナーにその役割を託して、今の私はこのように世界を見たいと思う。初めの話に戻るが、創作行為のあるべき姿について、歴史から倫理観を育て、保守と革新の交代劇の中にあって自分はどのように社会に関わっていくかをイメージし、どのようなルートでその関わりを実現していくかを練っていく。創作とは世界をどのように捉えて、いかに自分の見たままに表現していくか、と言えるのではないか。その功績は日々の鍛錬にかかっている。

アート思考とは

アプリを活用し始めてからサクサクと行動が進むようになった。成し遂げた後にボタンを押すというたったこれだけの作業が嬉しい。そしてポイントが貯まっていき、貯まったポイントは好きなことに使う。美術館に行くやカフェでゆっくり過ごすなどその都度自分で創り出せる。自分で生活を設計しているようで面白い。今日はアートとは何かということに少しだけ踏み込んでみたい。昨日日曜美術館で建築家の白井晃一さんの回を見ていて、漠然と感じるものがあった。謎解きというか、宇宙を思わせる、源のような、見たことがないわけでないのに唯一無二であるような、何かにハマりこむ時に似たような感じがした。世界観があるとはよく言うが、おそらくそれはオマージュが沢山込められているという意味もあるのだろう。それに加えて情熱、というかそれしか頼るものがないというような孤独感を代替したエネルギー。思想が作品になる。具体的にはどういう意味だろう。ものの見方が斬新であるということではないか。今日ピカソ作品の凄さについての動画を見て、写真に映る映像と人間の脳に映る映像は異なるということを知って驚いた。これは最近気になっていた、いかに生きるべきかという問いにも繋がっているような気がする。環境が一気に変わった時に感じる高揚感と同じだろう。確かに言われてみれば、人間は様々な方向から見た対象の全貌(真正面図)を脳の中で統合して初めてそれが何かを認識できる。対象物の一方向だけを見てそれが何か特定しているのではない気がする。(一方向だけ見つめているとそれが何か分からなくなるゲシュタルト崩壊の現象からも説明できる)おそらく過去に見た真正面図(二次元)の記憶を貼り合わせて、それが何かを特定しているのだろう。写真のような一視点からの映像をさらに脳の中で多視点の映像に変換して認識しているということになる。脳内の情報処理は当然一平面だけではなく、多平面あるいは無数の点の集まりのように同時並行に情報を折り重ねることができる。物事を考える時に一つの情報ではなくあらゆる情報を組み込んで表現すること。それは当然のようであって、実は平面的になっていることも多いのではないか。昨日書いた予定から予定という一つの視点でしか捉えられなくなっている”慣れ”現象。近代の特徴である合理主義、個人主義というのも視点を最小化していく方法の一つであろう。楽しむとか味わうというのはこの逆方向、いかに多視点を浮上させ同時に感じることができるかということではないだろうか。今日の話をまとめると、アート(思考)とは何かということ。それは技術を磨くという表面上の行為の裏側にあって、どうすることもできない非合理性を表現することである。また視点を縮小していく合理主義からの脱却であり、多彩な視点を持ち有機的に結びつけ、現状の課題を超越し、魂を成長させる手段である。

 

人間愛とは

今日は自分でも驚くのだが2回目の投稿。最後まで書き切れるか。メモ書きのような感覚。急に愛とは何だろうという問いが浮かんできたので、自分の文章に聞いてみようと思う。なぜか文章にするとはっきりと答えが出てくることがあるから。教えてくれるというか。今日は梅を収穫した。明日は洗って明後日氷砂糖や米酢を買ってきて漬けようと思う。夢みてはいたが、自然派っぽい暮らしができるとは思っていなかった。話が逸れてしまったが、そもそもなぜそう思ったのだろう。前回の続きになるが、必要悪への同情や神の愛、つまり苦しみをも包含する絶対の幸福について考えていると、一見善いことをした、気持ちよくさせた、ということが一体どうやって証明できるのだろうと気になり始めた。人間には所詮今でき得る最善を尽くすことしかできないとは頭では思うものの、自分の一挙手一投足は一体何なのだろう、意味などなくて構わないが、善悪の判断をつける権利のない私がそれを善だ悪だと決めつけて生活している毎日は何なのだろう。多数決でいくらこちらが善だと思われたところで、誰が言い切れるのだろう。人情とはそういうものだ、人間は過ちを犯すし、矛盾している。いくら合理的に答えを求めたところで、相手の感情が全てということが大半だ。悲しい。人間愛が極端に小さいのだろうか。いつ人間に冷めてしまったのだろう。そのことの方が問題だ。私は合理的でないことを一方で認めながら、一方で嫌悪している。酷い矛盾だ。私は道理の分からないことで感情的になる人間が嫌いである。時間の無駄だからである。冷静になれば誰も傷つかないのに、感情に飲まれて人を傷つける人間が許せない。そしてそれはそのまま自分にも言えてしまう。自分にはその通りのことをしている現実がある。自己否定。冷静に考えれば責める必要のないことなのに、許せないという感情だけで執拗に自分を責めて傷つけている。自己肯定感の低さの正体はこれではないか。他人も私も同じ人間に過ぎない。線引きをして善人面をしていたのは私だ。結局私は他人に自分を見て、自分自身に怒っていたのだろう。割り切れない感情と愛は関係あるのだろうか。話が少し展開してきているので整理してみよう。愛や善という目標設定はあるが、何が善で何が愛であるかの答えは人智では知り得ない。それでもそこに向かおうとする人情を理解すること。合理的に人間を理解しようとしていた自分の傲慢さ、未熟さに気づくこと。愛したい人がいるからこそ、間違えたくない、愛で包んであげたいと思う。人間愛とは、いかに人間の不合理性を理解するか、受け止められるかということなのかもしれない。

アプリを使い始めよう

文章を書くということを日課にしたいので今日も書く。つまり書きたいテーマがあるからではなく書くために書く、日記のようなもの。確かに文章を書くと言葉を話すのと同じ脳の回路を使っているような気がする。家で過ごす時間が多くあまり話す機会がないのでトレーニングとしても必要かもしれない。日々を意欲的に過ごすということをこれからの人生のテーマにしたいと思う。昨日宗教について考察したところ、人生の進むべき方向というものが少なからず見えてきたからである。もうすぐルームランナーが届く。筋トレは始めているが、ランニングも始める予定である。アプリを活用して日課表のようなものを作り、達成するたびにチェックしてそれをさらにポイント制にしてポイントが貯まったら好きなことをするという仕組みにした。二つのアプリを使っているので一つにまとめられるといいのだが、早速始めていてなかなか面白い。こうでもしないとやらなければならないことに囲まれる悲惨な日常に埋もれそうな危機感を感じたことと、以前と同じことが楽しめなくなったといううつ病の始まりのような症状が現れ始めたのでやるしかないという状況である。人間って機械のようには行かないものだと改めて感じる。体や心を盛り上げないと勝手にエネルギーが閉じていき、生きづらくなってしまう。文明の副作用だ。怠けてはいけないというのは、精神論ではなくもっと肉体的に証明できるものなのではないだろうか。文章を書くのもなかなか面白い。そういえば達成項目の一つに楽しいことに遭遇するというのを設けた。アンテナを張っていた方が何か面白いことに遭遇するかもしれない。最近はめっきり面白いと感じることが減ってしまった。いわゆる慣れというやつだ。いつも思うのだが何とも言えない虚しさと悲しさを感じる。慣れということについて少し深掘りしてみるか。慣れにもメリットデメリット両面ある。ただそれだけのことなのだが、慣れのデメリットには「我と慢心」という人生にとっての猛毒要素が入っているのが怖い点である。慣れを避けるために生きるというのは人生の目標に十分なり得る。結果を残すためではなく、人生を清浄に錆びつかせないようにするために、この慣れの悪い側面への対処をしなければならない、どんなに忙しくても。ある本に一日毎に生まれ変わるように生きるというのがあった。例えば◯月×日に〜をするという予定があったとして、それが終わったら次は〜、次は〜と常に予定に縛られ、永遠に今でないものに追われているという慣れ現象から脱却し、人生の時間を予定で区切るのではなく、今日一日で区切っていく。今日一日がどのように始まり終わるのか、いかに充実させるのか、楽しむのか、真剣にそう信じて生きること。なるほどと思う。気づかないうちに当たり前のように予定で時間を区切って捉えている。下手をすれば永遠に今を見ないまま人生が終わってしまうことになる。それは生きていると言えるのだろうか。妄想を見ているようなものではないのか。こうやって文章にすることで新たな気づきが訪れる。やはり宗教は外ではなく自分の内側にある。ただし昨日の大河ドラマのように、必要悪の存在に対しては同情する部分がある。必要悪とは神の視点から見れば幸福に含まれる一時的な苦しみのようなものである。残虐行為にしか思えないこともあるが、確かに今から過去を見た時にその悪行があったから今(の幸せ)があるということが言えてしまう。そのような必要悪に巻き込まれることが人生には往々にしてある。そしてその苦しみに効果的なのが、お金で解決できることなのかもしれない。さて今日は美術史を学び、水彩画を描き、筋トレをし、文章を書き、料理をし、整体術を学び、充実した1日に向かっているような気がする。自分の人生を充実させること。自分は社会に貢献できるような才能を残念ながら持ち合わせていない。言い訳でもなく、何をしても足手まといになることが本当に多く、誰にも迷惑をかけない一人でできる仕事、そして家事や事務作業のように必要な仕事、勉強することが好きなので興味があることを学ぶ、それをやることで精一杯である。そして少しでも楽しみながらやりたい。怒られようがそれしかできないのが現状である。才能があったらあったで実は大変そうだし、私はこれでいいのかもしれない。後ろめたい気持ちが常に付き纏っているのだが。自分を否定して責め続けても何のメリットもないような気がする。独り言のようになってきたので今日はこの辺で。

宗教について考える

そろそろ新しい記事を書く時期のような気がする。悶々とした日々が続いていたので、自分としばし向き合うことにしてみた。おそらく原因は心身の刺激が少ない、つまり暇な時間を持て余したことによるやる気の減退や苦しみ耐性の低下だ。ともあれ、宗教について最近考えさせられたことがあったので書いてみる。宗教のイメージそのままのおぞましい体験をしてしまったので、どうしてもそのままにしておけなくて考察するに至った。宗教があんな汚いものであるはずがないからである。人間同士の争いでは、しばしば恐ろしく醜いことが起こる。戦争や大量虐殺、人身売買など世界のあちこちで予想もつかないような残虐なことが日常的に行われているのだろう。カルト宗教やそうでなくても危うい宗教団体のイメージはそれに重なるものがある。教祖様を崇めたり、組織や建物や人格化された対象が中心となっている。宗教には心の安寧をもたらす役割があるため、その範囲内ならもちろんよいのだが、非合理的な内容に触れることを許しているという点で、過去のトラウマやよりどころのないネガティブな感情をそこ(霊的存在や現象)に当てはめて、他人を攻撃するという悲惨な行動に出る人もいて、感覚的に美しいものを愛でる時と逆の醜さおぞましさを感じざるを得なかった。しかしながらこの体験が宗教とは何かということを考えさせてくれるきっかけとなった。宗教とは先ほど述べたような心の拠り所となる癒しの側面と、合理的な説明のつかない非合理的な世の中の事象がもたらす知的あるいは情的緊張を解消してくれる側面がある。(コトバンクより)例えば、死後はどうなるのか、なぜ生まれたのかなどの知的緊張や、神がいるならばなぜ悪が栄え善が追いやられるのかなどの情的緊張などである。また時間や空間の概念を説明できるのも宗教であるという。今がどこへ向かっているのか、永遠に回り続けるのか(永劫回帰)どこかで破局するのか(終末観)など。神聖と世俗が属する空間(天国と地獄など)があり、その二つが交替しながら進む方向が時間であるという考え方。だとすれば、短期間かもしれないが人類の歴史を振り返った時、確かに神(革命)と悪魔(世俗化)が交代しながらも、現在は物質的な段階であるが底上げされてきている、つまり時間と共に全体の魂なるもの(霊的・肉的存在)が向上しているし、宗教から生死を捉えた時に、この魂の練磨ということが神の真意ということになる。ただし、近代の世俗化によって個人主義(我よし)・合理主義(何でもできる)の短所が増長され、我と慢心が全面に出てきているのも確かである。人生を宗教の側面から捉えてみると、何事にも陰陽両面があるとすれば、陰の面がこの人間主義のデメリットである我と慢心に陥らないことであり、陽の面が魂の成長、実際には具体的に何を達成するかというより、どのような態度で取り組むか、いかに前向きに楽しんで、もしくは苦しみに耐えて取り組むことによって魂を成長させるきっかけを増やすかということが生きる目標ということになる。同時に、幸福とは何かを考えた時に、神が存在するならば必ず先に幸福があるので、今のどんな苦しみも幸福に含まれるということになる。つまり、快と不快は幸福と別の軸にあり、苦しみは幸福になるための過程である。必ず幸福になるという神のセオリーを信じることが宗教でもある。そのようにしてコントロールのできない苦しみを受け入れることはありのままの現実を受け入れること、ごく自然なことであり、それに抗おうとすれば余分のエネルギーを消耗することになるだろう。以上が宗教についての考察である。不合理な世の中であるからこそ、やはり宗教は必要なものであり、人類の最大級の叡智であると私は考える。

もやもやと戯れる

結局調子が悪くなったら書きに来る、という形。マイナスな気持ちになりたいわけではない。プラスの気持ちにもなろうとしたくない。憂鬱。もやもやとした重いものが心の中に渦巻いてる。晴れやかでない。どうしたんだろう。暗い。暗くなりたいんだろうか、寧ろ。明るくいようとすることで、亡きものにされる本当の気持ちを汲み取ってあげたい。そういうことってたくさんあると思う。光が重宝される。大切にされる。闇は追いやられる。無視される。酷い扱いを受ける。どうして。醜いものや暗いもの、劣ったものはいつも酷い目に遭う。結局それで世の中が成り立っている。どうして。それが当たり前なの。おそらくその恨み辛み妬みの集合体が悪に変貌するのではなかろうか。スポットライトを浴びない地味な仕事をしていると生きている理由が分からなくなる。私の中で、人の目に触れないものは価値がないのだろう。馬鹿げている。それはつまり人の目をいつも気にしているということだ。人の目がどうやったら届かないのか執念深く意識している。自分で一生懸命光が当たらなように、何かの前提を守るように行動している。なのに自分が分からないなどと訳のわからない心理に至っている。不器用だな。本当に。間抜けだ。誰かの仕事をサポートする、裏方に徹するというのはそういうことだ。自分が出ることを極力控えなければならない。そして自分が表に出ないことを、不必要とか誰にでもできると捉えることが間違っている。なぜそうなるのか。馬鹿なのか。そういう風に他人のことを見ているということだから本当に酷い、精神性が低い。さて、ここからだ。どうする。こうやって書いているうちに、偏った思い込みに気付くことができる。それはとても良いことだ。経理や事務の仕事は世の中に溢れているし、それがないと事業を運用していくことはできない。それをシステムに委託することもできる。よほどのことがない限り誰にでもできるとも言える。ロボットにできることを人間が心身をすり減らしてやることの不合理を感じているのだろうか。前職もそうだった。何で人間がやっているのだろうと心底疑問を感じながらやっていた。悲しかった。自分が機械扱いを受けているみたいで。過渡期だと考えるしかない。自分がその犠牲者だと捉えるかどうかはその人次第だ。人間にしかできないこと、例えば話を聞くこと。遊ぶこと。旅すること。創作活動。歴史や偉人や師に学ぶこと。そういうことに価値を置いて生きていきたいし、それに付随する形でルーティーンに取り組みたい。主客を転倒したくない。

本当の薬

怠け。そんなワードが頭をよぎる。何かがずれ始めている。何がかはよく分からない。魔が入っているというか。大きな行事を終えて、気が抜けているということはあるかもしない。軽い燃え尽き症候群のような。新たに始めるという行動が必要らしいが上手く切り替えられないでいる。生理前ということも相まってどうも短気になったり、焦燥感が強まったり、混乱しやすかったり、思い切って休んだ方がいいのかとも思うが、こうやって書くことで気持ちを紛らわすくらいのことはできるかもしれない。つまり心の問題だ、一時的な。それでもその積み重ねは大切なのかもしれないとも思う。ブツブツと陰気な呟きをスパッと退治してやりたい。本来一瞬一瞬が心にとっては選択の連続のはずだが、感情のままに流されている。これはよくない。最近は直感もあまり冴えていない。全体的に流されている。やらなければならないことの連続で、心もストレス状態というか彷徨っているような感じがする。だからと言って自分の思い通りにしようとするのも違う気がする。忍耐力の不足と言ってしまえばそれまで。我が強く出ている、怠け心に負けているというのも同じく。何かがある。思い込みなのか本当なのか訝しげに思っていること。無意識のうちに自分に嘘をつき、我慢することで心が傷ついた過去、トラウマ。いつか憎しみが爆発してしまうのではないかという恐怖感。その燻っていた自分の心の問題が露わになっているのではないか。確かに生理前の精神不安定の度合いが大きい時は、恐怖感が出てくる。飲み込まれそうなほどの、どう立ち向かってよいか分からず、布団にくるまって悪魔が通り過ぎるのを待つしかないような。それを解決しようとするべきか、放っておくべきか。そこを深く掘る必要はないのではないか。明るく前向きな考えに持っていくようにした方が良いのではないか。個人の小さな心の問題にクローズアップしすぎているような気がする。この纏わりつく負の想念をなんとかしなければならない。嘘でも何でもいいから明るい言葉を発する。ありがとうとか、感謝していますとか。言霊の力を借りる。物理的な対処法があるような気がする。おそらく脳内物質やホルモンの量が変化して波動が低くなるのではないか。ただ肉体が影響を受けているだけ。そして表裏関係にある心も。深い意味なんてない。ただ影響を受けやすい体質ということは、それを乗り越える術を身につけるための修行であると捉えられる。確かに、今数回口にしただけで薬を飲んだかのように体が少し軽くなった。薬か。ずっと薬の勉強をしてきて薬は毒だと思う面が多かったが、狭義の物質的な面だけを見ていたのかもしれないし、物質かどうかに関わらず本来の薬とは結果的に波動を上げるものなのかもしれない。今更になってこんなことを思う。