祈りとものさしとアートと

自分のものさしを発見する場所

人間愛とは

今日は自分でも驚くのだが2回目の投稿。最後まで書き切れるか。メモ書きのような感覚。急に愛とは何だろうという問いが浮かんできたので、自分の文章に聞いてみようと思う。なぜか文章にするとはっきりと答えが出てくることがあるから。教えてくれるというか。今日は梅を収穫した。明日は洗って明後日氷砂糖や米酢を買ってきて漬けようと思う。夢みてはいたが、自然派っぽい暮らしができるとは思っていなかった。話が逸れてしまったが、そもそもなぜそう思ったのだろう。前回の続きになるが、必要悪への同情や神の愛、つまり苦しみをも包含する絶対の幸福について考えていると、一見善いことをした、気持ちよくさせた、ということが一体どうやって証明できるのだろうと気になり始めた。人間には所詮今でき得る最善を尽くすことしかできないとは頭では思うものの、自分の一挙手一投足は一体何なのだろう、意味などなくて構わないが、善悪の判断をつける権利のない私がそれを善だ悪だと決めつけて生活している毎日は何なのだろう。多数決でいくらこちらが善だと思われたところで、誰が言い切れるのだろう。人情とはそういうものだ、人間は過ちを犯すし、矛盾している。いくら合理的に答えを求めたところで、相手の感情が全てということが大半だ。悲しい。人間愛が極端に小さいのだろうか。いつ人間に冷めてしまったのだろう。そのことの方が問題だ。私は合理的でないことを一方で認めながら、一方で嫌悪している。酷い矛盾だ。私は道理の分からないことで感情的になる人間が嫌いである。時間の無駄だからである。冷静になれば誰も傷つかないのに、感情に飲まれて人を傷つける人間が許せない。そしてそれはそのまま自分にも言えてしまう。自分にはその通りのことをしている現実がある。自己否定。冷静に考えれば責める必要のないことなのに、許せないという感情だけで執拗に自分を責めて傷つけている。自己肯定感の低さの正体はこれではないか。他人も私も同じ人間に過ぎない。線引きをして善人面をしていたのは私だ。結局私は他人に自分を見て、自分自身に怒っていたのだろう。割り切れない感情と愛は関係あるのだろうか。話が少し展開してきているので整理してみよう。愛や善という目標設定はあるが、何が善で何が愛であるかの答えは人智では知り得ない。それでもそこに向かおうとする人情を理解すること。合理的に人間を理解しようとしていた自分の傲慢さ、未熟さに気づくこと。愛したい人がいるからこそ、間違えたくない、愛で包んであげたいと思う。人間愛とは、いかに人間の不合理性を理解するか、受け止められるかということなのかもしれない。