祈りとものさしとアートと

自分のものさしを発見する場所

もやもやと戯れる

結局調子が悪くなったら書きに来る、という形。マイナスな気持ちになりたいわけではない。プラスの気持ちにもなろうとしたくない。憂鬱。もやもやとした重いものが心の中に渦巻いてる。晴れやかでない。どうしたんだろう。暗い。暗くなりたいんだろうか、寧ろ。明るくいようとすることで、亡きものにされる本当の気持ちを汲み取ってあげたい。そういうことってたくさんあると思う。光が重宝される。大切にされる。闇は追いやられる。無視される。酷い扱いを受ける。どうして。醜いものや暗いもの、劣ったものはいつも酷い目に遭う。結局それで世の中が成り立っている。どうして。それが当たり前なの。おそらくその恨み辛み妬みの集合体が悪に変貌するのではなかろうか。スポットライトを浴びない地味な仕事をしていると生きている理由が分からなくなる。私の中で、人の目に触れないものは価値がないのだろう。馬鹿げている。それはつまり人の目をいつも気にしているということだ。人の目がどうやったら届かないのか執念深く意識している。自分で一生懸命光が当たらなように、何かの前提を守るように行動している。なのに自分が分からないなどと訳のわからない心理に至っている。不器用だな。本当に。間抜けだ。誰かの仕事をサポートする、裏方に徹するというのはそういうことだ。自分が出ることを極力控えなければならない。そして自分が表に出ないことを、不必要とか誰にでもできると捉えることが間違っている。なぜそうなるのか。馬鹿なのか。そういう風に他人のことを見ているということだから本当に酷い、精神性が低い。さて、ここからだ。どうする。こうやって書いているうちに、偏った思い込みに気付くことができる。それはとても良いことだ。経理や事務の仕事は世の中に溢れているし、それがないと事業を運用していくことはできない。それをシステムに委託することもできる。よほどのことがない限り誰にでもできるとも言える。ロボットにできることを人間が心身をすり減らしてやることの不合理を感じているのだろうか。前職もそうだった。何で人間がやっているのだろうと心底疑問を感じながらやっていた。悲しかった。自分が機械扱いを受けているみたいで。過渡期だと考えるしかない。自分がその犠牲者だと捉えるかどうかはその人次第だ。人間にしかできないこと、例えば話を聞くこと。遊ぶこと。旅すること。創作活動。歴史や偉人や師に学ぶこと。そういうことに価値を置いて生きていきたいし、それに付随する形でルーティーンに取り組みたい。主客を転倒したくない。