祈りとものさしとアートと

自分のものさしを発見する場所

幸せと縁

また間が空いた。もう続けるという設定は外すことにする。前提が合っていない。そもそも設定などあったのか。人の話題に影響を受けてしか脳みそを働かせることのできない自分が、馬鹿げている。ずいぶん前から感じるのだが、何かを思う時、常にちらついている何かがある。それは一向に掴めず、全貌というような、形のない何かとてつもなく面白そうな情報のようなもの。それは流れ星のように消えていく。それを知りたいのだが、敢えて追いかけようとは思わない。それについて今日は語ろうか。と言ってもそれが故意に出せるわけもなく、語ろうにも記憶にも残らないほど儚げなものだ。とにかくちらつく。ただの記憶の影かもしれない。親父ギャグは老化現象だというが、それに似たような状態かもしれない。脳の神経回路が勝手に繋がる。終わってしまった。もっと広がりのある話はないのか。時代が大きく変わろうとしているのに。計り知れないほど大きなスケールで。結局自分のしょうもない日常生活の不満を語ることになるのではないかと恐ろしくなる。今何を思っているか。完全に抵抗のない生活というわけにはどうしてもいかない。私の中で衝突している思いの量子はどこだ。不満や疑問はエネルギー源でもある。もっとよくしよう、解決しようと働くから。私の人生は止まってしまったのだろうか。今はたまたま飛行機が雲の上に抜け、明るい静寂な空間の中にいるだけだ。幸せってなんだろう。喜びというのはもしかしたら勘違いなのではないか。数多のベクトル同士がぶつかり、波紋し合ってプラスとマイナスが相殺された地点、静寂地点が最高の幸せというやつではないのか。瞑想は違うと思う。自らの意思で到達できる地点ではないからだ。偶然というのか必然というのか縁というのか他力というのか運命というのか、とにかく運ばれて来た地点が静寂状態にあること。忙しく動いているにも関わらず。動中の静。つまり幸せは自分の手で手に入れるものではない。多数決の幻想。真実が多数派であるとは限らない、寧ろ逆のケースが多いだろう。それなのになぜ世の中は多数決のルールに従って動いているのか。そもそもこの世界はあべこべの世界なのか。そういう設定なのか。夢の中でこれは夢だと気付くみたいに。書くのがだんだん面白くなってきた。自力と他力が同時にある感覚が少し掴めてきたから。この二つは表裏だったのかもしれない。偶然と必然も。自分で何かをしようと思うのは、そもそも自分の意思なのか。無数の縁が結ばれてその行為に至ったのだろう。だから何かしなければと焦ることも、焦っても意味がないと思うことも全て、因縁因果の法則にしたがっている。全ては縁によって運ばれている。これは決して何もしなくてよいという意味ではない。何もしなくてよいと感じるのも、何もしなくてよいという意味ではないと感じるのも、両者とも縁によっている。つまり全ての結果が正しいということになる。どんな悪行も、悪行を成敗することも、悪行を憎むことも、英雄に熱狂することも、善も悪も役割の一つ。現象の一部。悪は悪いに決まっている。だから駆逐される方向へ物事は進む。ただこれは原因と結果という現象が起こっているだけなのだ。その仕組みを上から眺めるようにいつでもできれば、感情の波にあまり流されることなく動中の静を生きられるのかもしれない。悪はそのうちいなくなる。自分が悪を倒す役割を引き受けることもあるかもしれない。悪そのものになることも。それも全て原因と結果、それだけのこと。

多くの人の幸せを考える

書くことに意味があるのか、わからない。でも何もしないよりはいいんじゃないか。そういう気持ちで書く。すっかり間が空いてしまった。続けるというのは難しいことだ。何をここで書きたいのか。何となくあるんだけど、それがこれからの未来のことであるということ。それに雑念が絡みついている。闇色の粘りつくような影。私が持っているものなんて本当にない、ここで卑下しても何の意味もないのだけれど、時間を無駄遣いしているような申し訳なさがあって、集中できない。自分と向き合うなんて偉そうなことを言ったけど私にそれができているのだろうか。自分に持っているものがないなんて傲慢だということは分かる。生活できるだけの過不足のない最適な能力が備わっているのだから。暇だから余計なことを考えるのだろう。今を楽しまないと。誰かの心配をしたり、未来を不安に思ったり、それこそ時間の無駄遣いだ。

意味があるってなんだろう。考えることは無駄だとしたら、今の時間は一体何なのだろう。有意義なことをしたい、残された時間は少ないのだから。だからと言って焦っては逆効果。深呼吸をしてみる。一体今の私は何をするのがベストなのだろう。無意識に封じ込めている何かがありそうな気がしてならない。表面的に生きることの浅はかさを早く解消しなければならないのに。ずっと同じことが気になっている。言語化できていないのだけれど。愛にすり替えているのではないだろうか。怠けるわけにはいかない。だからと言って肥やしにされるわけにもいかない。ただ歩くこと、息をすること、それのどこが罪なのだろうか。感覚をとにかく言語化してみる。断片的でもいい。私が何を考えているのか。それをこの文章から読み取りたい。私の頭の中にある声を書き出してみる。蠢いているような声もある。詩を書きたいのか。才能があるとかないとか。捨てきれない思い。羨望。承認欲求。未熟さ。対人恐怖。どうでもいいと押し込めているものは本当にそうなのか。映画を見たり、ニュースを見たり、情報に触れたり、そういうことで自分を生かしている。もっと本質的に役に立つことって何だろうか。そんな考えは傲慢だろうか。誰にとっての傲慢?一般常識に照らし合わせて?いつになったら比較して貶める癖を止めるのか。神様と対話しているのだろうか。私の本気って何だろうか。取り繕っていないだろうか。考えすぎ?見事な堂々巡り。私の得意分野だ。どうやったら自分と対話できるんだったっけ?疑問を投げかける?私の進むべき方向性、というより納得感が足りない原因は何だろう。神の天糸があまり感じられないこと?これから色々やらなければならないことがあるから、それに対するストレス反応だろうか、単に。だとすればどうやってそれを乗り越えるかを考える?隙間を埋めることを考える。人生ってそれでいいのだろうか。残された人生をどう生きるかということへの考察が不足しているのだろうか。時間を有効に使わなければならないという命題だけが頭の中で反芻していて、現実が伴っていないことが何となく不安なのでは。仕事が適当な間隔で連続してあればそれは解消されるのか。大きなものを守りたいという愛念が薄れたことによるのではないか。自分のことだけ考えているからではないのか。

多くの人を守り救い幸せにするには一体何をすればよいだろう。無理をして働かないこと。そして適度に働くこと。愛する人が近くにいること。問題を挙げればキリがない。奴隷制のような働き方、富裕層が牛耳る通貨制度、対人関係問題(更新されない結婚制度や企業の旧体制)、選択肢の少ない医療制度、依存関係(支配する親・支配される子)にある家庭問題、機械人間を大量生産する教育制度、創造性や感性の乏しさと宗教観の欠落、近視眼的な生き方、カルト宗教の選民思想。愛の世界の扉を開ければそこには多くの立ち向かわねばならない壁が立ちはだかっている。愛と戦争はもしかすると紙一重なのではないだろうか。頭をよぎるのは、どんな無駄なことも残酷なことも失敗も問題も全て必要なこと意味のあることなのではないかということ。どこまで人為的に手を加えようとするか。人間が計り知れることではないからこそ、とにかく何かをすること、失敗を繰り返し過ちに気付きその中で軌道修正されていくこと。全てに意味があると考えること。大抵この意味がないのではないか、という考えが道の邪魔をする。食べて、眠って、笑って、息をして、歌って、描いて、うずくまって、泣いて、叫んで、怒って、憎んで、愛して、疲れたり、飛び跳ねたり、期待したり、緊張したり、不安になったり、自信がなかったり、自分を責めたり、汗水流したり、読んだり、聞いたり、見たり、書いたり、そういう全て。全人類を幸せにしている人なんていない、それを願ったり、幸せに生きている人がいるだけ人の幸せを祈り、自分の幸せを考え行うことが全人類の幸せに貢献する自分の幸せのために他人を利用しては結果的に幸せになれない。他人から承認されたら評価されたら幸せになる、これは本当ではない。自分から思わず与えたくなるほどの愛すべき対象が見つかり、心が満たされるほどの幸せが溜まってきたらお裾分けする。これが自然の順序だろう。諸問題や戦争が何となく次元が違うような気がするのはなぜだろう。問題を正しく捉え、身の危険を感じる時はまず逃げる。問題を把握することさえできれば、正しく怒りを発することができる問題に気がつかず無意識に取り込んでしまった時、問題は悪化する。スキルス性の癌のようなものだ。肉体の癌に比べ致死率は低いものの、下手をすると死後にも長い影を落とす。幸せな世の中にするとはどういうことか。まとめると、まず問題を正しく認識し、依存心を見抜き、逃げる、怒る、許しなどの段階を経ること。思わず与えたくなるほど愛すべき対象を見つけること。それによって満たされた心の幸せの余った分を周りにお裾分けすること。全てに意味があるということを知ること

自己実現にはマイナスとプラスの両輪が必要

表面的に何かをやるということから卒業したい、のかもしれない。例えば習い事を始めてそれなりに楽しんだり苦しんだりすること。会社や慈善団体に所属して与えられた仕事をそれなりにこなすこと。どんなに立派な理想論を言っても何もしないことはいつも軽蔑の対象となる。暇を持て余している時に、未来に夢や希望を持とうと焦ることはよくない。日々の暮らしを丁寧に、と肚を決めた瞬間に衝動的に何か行動を起こしたくなるというパターン。あるいは状況が動くような情報に出会うというパターン。

占星術師のマドモアゼル愛先生の発言や活動が好きで様々拝見させていただいている。マイナスすることで開けていく。期待して待っているということは、体中の穴という穴を広げながら両手を出して恵みを受け取ろうとするポーズ、いわば欲望の塊である。何かをプラスすることで得るということはそういうことだ。それが人間の紛れもない一面ではあるのだけれど。自分に嘘をついて、隠して人と付き合う。そういう所が私にはある。それは残念ながら自分や他人に対する憎しみに変わり、結果的に人嫌いという形で表れる。その手の内省や勉強はかなりしてきた方だと思う。自分の人生の決定権を他人に簡単に受け渡してしまう弱さがあって、他人に理不尽な思いをぶつけることができなかったことから、自分に向けて濃厚な憎しみとして心身ともに暴力を与えた過去の苦い経験もあるので、今では無理な人間関係からは離れる、距離を取るという方法に落ち着き、それを悪いことだとは思わなくなってきた。まだ葛藤することはある。そこを変えることができたなら、多くの人から注目されても不快に思わなくなり、寧ろ愛され、私も愛し、自由な自己表現ができるのではないか。だが、バンジージャンプが全てではないのかもしれない。二十代と三十代ではそこが違うのではないか。諦めや老化と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、今はそれをする時ではないという見えない安全装置があるのを感じる。余計なものを省き、与えられたものでやっていく。これもプラスするではなく、マイナスの発想である。

積み重ねてきた人生を振り返ると、敢えてこの弱く優しい性格で生まれその人生を体験して来たのだから、そこを下手に改良しようとするのではなく、失敗を戒めとし、いい部分のみを大切に紡いでいく。判断力の低さという欠点を、必ず意識的に、それが得意な信頼できる相手に委託すること。専門家に任せるというのと同じである。自分の人生を決める決定権は譲らないこと、時間をかけてよいものは自分で判断することは前提であるが。憎しみは元々の気質などではない。ちゃんとした理由がある。自立できない大人をたくさん見てきて、自分の中にある依存心のようなものに怯えて生きてきた。依存心というのはつまり無自覚の決定権の譲渡である。子供の頃は誰しもそういう所があるのだが、性格の優しさに加えて親のコントロールが強い(親が子供を通じて自己実現しようとしている)環境で育ったような場合は特に、与える立場である大人になっても自己決定権の放棄を続けていると、そのうち厄介な精神病になってしまう。異常な判断しかできなくなりそれが異常だということを自分で感じられなくなる。優しさは一概に善いとは言えない。現代人が自己実現をプラスの発想で捉えているということが、もしかしたら根幹にあるのかもしれない。では、マイナスの発想で自己実現を捉えた場合、どういうことが考えられるのか。

何かができる、何かを所有しているということ以外で叶えられる自己実現とは。目に見えるか見えないかという違いであるように思う。目に見えない形の財産として築かれる、それがマイナス発想の、つまり精神的自己実現だ。新しいことを始める。旅に出る。これはプラスに当たるのだろうか。今始めてみたいことがあるのだけど、それが表面的な仕草に終わらないかという懸念がある。何をする、ということに重きを置きすぎているのではないか。おそらく何をするかはどうでもよいことそれを通して何を得るのかが大切だ。言ってしまえば息をする一つに命がこもっていればそれでよい。それこそがよい。読書する、料理をする、祈り。その中に神が宿っているかどうかが重要だ。もし現状でそれが難しい時に、習い事や旅行がその突破口になるというだけ。

マイナス発想の自己実現ということで考えてみたが、それだけでよいわけではない。プラスの自己実現である経済的自立、つまり自分の人生の経済基盤をどのように考え実践するのかを決めることとは両輪にあるように思う。そこの自立ができないというのは、人生の大切な決定から目を背けている部分があるだろう。

子供と大人の境界線を解体する

今日はどんな文章を書こう。気づいたら二日も空いてしまった。頭の中に水中に落とした絵の具のようなもやもやした影ができ始めた。「子供のような」心の豊かさは、よい例えで使われる。最近夫と過ごしていて、そういうすっかり忘れていた子供心を思い出すことがある。けれど、学校教育で培われた呪縛のようなものも同時に発動して、子供心が発現すると、すかさず非常につまらない批判めいた意見が頭に浮かび、言葉に発してしまう。白ける。自分で自分に。乗り越えたい。子供になりきるというのとも違う。批判したい気持ちを抑えるというのも少し違う。もっと自信を持つ。

子供と大人の自分が葛藤している構図になっているのだが、それすら人為的に操られているような気がする。子供でも大人でもない、中間でもない、私は私である。子供のままでいることに罪悪感を覚えている。どこがいけないのだろう。同時に怒りのようなものが立ち上がる。おそらくこれは心の抑制を続けていた時代の名残だ。とにかく、抑えて抑えて憎しみの塊を心の中に飼い続け、何とかやり過ごしてきた時間が割と長い方だ。憎しみは誰かにぶつけることはとうとうなかった。初めは親だろう。あるいは学校の先生。よい子の仮面を被り続けることに、始めは親を喜ばせたいという純粋な気持ちであったはずなのに、いつしかなぜ自分はこんな不自由な檻の中に閉じ込められなければならないのだろうという憎しみが込み上げてくるようになり、それが漏れ出ないように細心の注意を払うようになった。一人でいる時は緊張が解けるのでとても楽だった。本心で誰かと交わることももちろんなかった。その誰かは憎しみを忘れさせてくれるありがたい存在ではあったけれど。今思えば、自分の人生の選択権を他人に預けて依存した挙句、自分の苦しみを他人のせいにして恨んでいるだけであった。

どこをゴールとして進んでいけばよいのか分からないまま、ただもがき続けてきたが、自分の中にあった憎しみはいつの間にかどこかへ行ってしまったようなのだ。これを許しているというのか。自分の憎しみを少し遠くから眺めることができるようになったようだ。視野を広げるために、空間的・時間的に広く捉えるとよいというが、自分の身の回りだけでなく、日本全体や世界や目に見えない世界のこと、あるいは歴史上の偉人やその背景に触れることで、小さくなったのだろう、自分の感情が。それと憎しみを引き起こす原因から、例えば窮屈な人間関係や職場環境から離れることで、人間は忘れるのだ。逃げるという選択。だから、徐々に克服してきているのだろう。自分の弱さが何であったのかということを振り返ることができるほどに。つまらない理由で子供の自分を拒絶する、大人の自分を解体すること。それは自分の弱さを笑い飛ばすことだ。失敗や能力の不足、それがどうしたというのか。たったそれだけのことではないだろうか。子供のように腹を抱えながら笑うことより大切なことなどあるだろうか。文章を書くのは面白い。

選択と葛藤から生まれるのは革命か悲劇か

もう5記事目になる。あっという間に。少し空いた時間に書けるのはとても便利。頭に浮かぶ由無し事を書き綴る。

夫の仕事はとても素敵。夫を支える妻という構図は、男性社会を象徴するものなのだろうか。一抹の不安がよぎるけれど、余程の才人を除き、一般に人間はマルチタスクをすると効率が落ちる。専業で家事をすることは女性の権利を侵害されていることなのか。差別は人権を守るためにあってはならないことだ。差別に繋がる偏見も出来るだけ取り除くのが望ましい。ただ偏見は悟りを得た聖人でもない限り、日常の中で完全になくすことは難しい。

極端に言えば、虐殺や暴君による謂れのない制裁など、明らかに排除されるべきこと。専業主婦かキャリアウーマンか、性格や能力に違いがあるように、単なる選択の違いであってどちらが正しいかなど議論する意味のないこと。時代の社会情勢に影響されることはもちろんある。そこに争いの火種が生まれることは避けられないのだろうか。隣の芝は青く見える。比較して不安になる。自分の選択が間違っているのではないかと絶えず葛藤する。だからといって大多数の考えに同調して安堵することには疑問が残る。表面上は関係ないように振る舞っていても内面では解決していないこと。

何を選ぶかは最終的にはやはり本人の問題であり、社会的に道徳的に善であるといくら訴えても、悪を選ぶことを安易に罰するのはどうであろうか。どこまでも相対的。人の命を、心を、明らかに傷付けることですら。過去の非情な出来事が起こったから素晴らしい今があるという未来がないとは言えないし、おそらくそうなるに違いない。結局は、今何がよいかということを限られた人生の狭い視点から捉えることしか人間には出来ない。間違えたらそこから前を向いてやり直すしか。間違えるはずがないと思うことは傲慢以外の何者でもない。真も善も美も本来無一物。今ここで最善を選ぼうと誠意を尽くすこと。間違えないように努力することは素晴らしいが、間違えることは許されない、間違えるはずがないと思うのは傲慢である。一つ固結びが解けたような気持ちだ。

花戦さ、美は平天下に続く

続いていると言ってよいのか、のらりくらりと書いていく。今日も何を書くかは決まっていない。今思っていること。「花戦さ」という映画を観ながら書いている。習い事を始めようかどうか迷っていて、一旦始めると時間を縛られるような気がして、決めかねている。自由でいたい。織田信長のセリフに「武人たるもの茶と花を、人の心を大事にせよ。それこそが人の上に立つ者の道じゃ。」面白そうな映画だ。京都六角堂の初代池坊の話。信長の時代から花を生ける専門職があったのか。演歌を一節歌うように、和歌を詠むシーンも出てくる。祈り、日記(内省)、芸術。それを基盤として生きていく。

芸術とは何か。私にはまだ迷いがあるのではないか。自分なりにやりたいことをやって来て、自分のために生きることへの関心はもうないと思っていたが、本当にそれでいいのだろうかという問いかけが残っているのかもしれない。華道は日本の伝統文化。夫は主に風景を描く水彩画家で今は世界中の、主に西洋の街並みを描くことに意欲を燃やしている。私は全力で夫をサポートしたいと願っているが、習い事をすることが果たして夫の助けになるだろうか。自分の楽しみのためだけにやろうとしているのではないか。意味を求めすぎているだろうか。

「一輪にて伝わるは、多くより心深し」素敵な世界観だ。自分の中で西洋の豪華絢爛さと東洋の無形無限の自在さ、その二つの美の形が溶け合わずに分離しているようなのだ。「金か黒かどちらが美しいか」「どちらもそれぞれに」次のステージに上がりたい。どちらも、というのはどういうことなのか。同じ次元にいては解決されない。「花」もしかすると、この謎を解く鍵なのか。東西を問わず。東でも西でもないもの。愛。花のように、愛らしい。本来無一物

何に囚われていたのだろう。どちらが、などどうでもよいことに拘っていた。いいと思うものは全て取り入れたらいい。それは他でもない日本の、神道の思想だ。仏教は東洋思想というより、全人類に共通の執着の源泉である「心」を修めるための叡智である。心を錬磨しながら、共生する。それぞれのよさを認め、共に力強く生きていくこと、それは行動することであり、学問し感性を磨くことである。この映画を観ていてそんなことを感じた。

今日の手紙

昨日は書きかけて途中でやめてしまった。毎日書くというのはなかなか難しそうだ。今日は映画をいくつか観た。「岡潔」とその妻の物語、山田洋次監督の「学校」という作品。内藤湖南が発表した「支那論」について取り上げた歴史番組も見た。将来行ってみたい海外についても調べた。

いつも動画を流して何かを聴くようにしている。気づけばこの習慣は父とそっくりである。寂しいからなのか、好奇心からなのか。ただ暇にしているのはよくないという意識は染み付いている。夫は自分も周りも幸せになる最善の選択を常に取っている。そんな夫を尊敬し誇りに思っている。

いつも私は何かを探しているような気がする。今が不幸というわけでは決してない。次のステージに行きたい。常にそう願っている。岡潔のドラマに出て来た「(花は紅、)柳は緑」という言葉の理解が少し深まった。柳はなぜ自分が緑かなどということは思わない。自然はただあるがままに存在している。タモリの「やる気のあるやつは去れ」という言葉がある。やる気だけのある人は物事の真ん中しか見ておらず、周囲にある面白さが見えない。このパズルを解こう。その日に集めた宝物(言葉など)は繋げて読み解くと、神様の手紙になっている。自分が何かを探している感覚、重要なのはその感覚をそのまま感じることであって、その解答を得ようとすることは天地自然の法則から外れている。”柳は緑”の在り方は、人間が神と分かれる前の感覚である。物事の中心(有形)には既に魂はない。形になって現れた時には既に本質は他へ移っている。柳は緑の在り方は、無形である。観念が現れる以前である。観念とは意味を持たせること。まとめると、観念が現れる以前のありのままの状態を知ること。それは何も考えないように意識することではなく、思ったことの全てを意味のないものとしてそのまま流し続けるということ。それが有形に囚われずに客観視することであり、次のステージに繋がっていく。そんな気がした。