祈りとものさしとアートと

自分のものさしを発見する場所

自己実現にはマイナスとプラスの両輪が必要

表面的に何かをやるということから卒業したい、のかもしれない。例えば習い事を始めてそれなりに楽しんだり苦しんだりすること。会社や慈善団体に所属して与えられた仕事をそれなりにこなすこと。どんなに立派な理想論を言っても何もしないことはいつも軽蔑の対象となる。暇を持て余している時に、未来に夢や希望を持とうと焦ることはよくない。日々の暮らしを丁寧に、と肚を決めた瞬間に衝動的に何か行動を起こしたくなるというパターン。あるいは状況が動くような情報に出会うというパターン。

占星術師のマドモアゼル愛先生の発言や活動が好きで様々拝見させていただいている。マイナスすることで開けていく。期待して待っているということは、体中の穴という穴を広げながら両手を出して恵みを受け取ろうとするポーズ、いわば欲望の塊である。何かをプラスすることで得るということはそういうことだ。それが人間の紛れもない一面ではあるのだけれど。自分に嘘をついて、隠して人と付き合う。そういう所が私にはある。それは残念ながら自分や他人に対する憎しみに変わり、結果的に人嫌いという形で表れる。その手の内省や勉強はかなりしてきた方だと思う。自分の人生の決定権を他人に簡単に受け渡してしまう弱さがあって、他人に理不尽な思いをぶつけることができなかったことから、自分に向けて濃厚な憎しみとして心身ともに暴力を与えた過去の苦い経験もあるので、今では無理な人間関係からは離れる、距離を取るという方法に落ち着き、それを悪いことだとは思わなくなってきた。まだ葛藤することはある。そこを変えることができたなら、多くの人から注目されても不快に思わなくなり、寧ろ愛され、私も愛し、自由な自己表現ができるのではないか。だが、バンジージャンプが全てではないのかもしれない。二十代と三十代ではそこが違うのではないか。諦めや老化と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、今はそれをする時ではないという見えない安全装置があるのを感じる。余計なものを省き、与えられたものでやっていく。これもプラスするではなく、マイナスの発想である。

積み重ねてきた人生を振り返ると、敢えてこの弱く優しい性格で生まれその人生を体験して来たのだから、そこを下手に改良しようとするのではなく、失敗を戒めとし、いい部分のみを大切に紡いでいく。判断力の低さという欠点を、必ず意識的に、それが得意な信頼できる相手に委託すること。専門家に任せるというのと同じである。自分の人生を決める決定権は譲らないこと、時間をかけてよいものは自分で判断することは前提であるが。憎しみは元々の気質などではない。ちゃんとした理由がある。自立できない大人をたくさん見てきて、自分の中にある依存心のようなものに怯えて生きてきた。依存心というのはつまり無自覚の決定権の譲渡である。子供の頃は誰しもそういう所があるのだが、性格の優しさに加えて親のコントロールが強い(親が子供を通じて自己実現しようとしている)環境で育ったような場合は特に、与える立場である大人になっても自己決定権の放棄を続けていると、そのうち厄介な精神病になってしまう。異常な判断しかできなくなりそれが異常だということを自分で感じられなくなる。優しさは一概に善いとは言えない。現代人が自己実現をプラスの発想で捉えているということが、もしかしたら根幹にあるのかもしれない。では、マイナスの発想で自己実現を捉えた場合、どういうことが考えられるのか。

何かができる、何かを所有しているということ以外で叶えられる自己実現とは。目に見えるか見えないかという違いであるように思う。目に見えない形の財産として築かれる、それがマイナス発想の、つまり精神的自己実現だ。新しいことを始める。旅に出る。これはプラスに当たるのだろうか。今始めてみたいことがあるのだけど、それが表面的な仕草に終わらないかという懸念がある。何をする、ということに重きを置きすぎているのではないか。おそらく何をするかはどうでもよいことそれを通して何を得るのかが大切だ。言ってしまえば息をする一つに命がこもっていればそれでよい。それこそがよい。読書する、料理をする、祈り。その中に神が宿っているかどうかが重要だ。もし現状でそれが難しい時に、習い事や旅行がその突破口になるというだけ。

マイナス発想の自己実現ということで考えてみたが、それだけでよいわけではない。プラスの自己実現である経済的自立、つまり自分の人生の経済基盤をどのように考え実践するのかを決めることとは両輪にあるように思う。そこの自立ができないというのは、人生の大切な決定から目を背けている部分があるだろう。