祈りとものさしとアートと

自分のものさしを発見する場所

子供と大人の境界線を解体する

今日はどんな文章を書こう。気づいたら二日も空いてしまった。頭の中に水中に落とした絵の具のようなもやもやした影ができ始めた。「子供のような」心の豊かさは、よい例えで使われる。最近夫と過ごしていて、そういうすっかり忘れていた子供心を思い出すことがある。けれど、学校教育で培われた呪縛のようなものも同時に発動して、子供心が発現すると、すかさず非常につまらない批判めいた意見が頭に浮かび、言葉に発してしまう。白ける。自分で自分に。乗り越えたい。子供になりきるというのとも違う。批判したい気持ちを抑えるというのも少し違う。もっと自信を持つ。

子供と大人の自分が葛藤している構図になっているのだが、それすら人為的に操られているような気がする。子供でも大人でもない、中間でもない、私は私である。子供のままでいることに罪悪感を覚えている。どこがいけないのだろう。同時に怒りのようなものが立ち上がる。おそらくこれは心の抑制を続けていた時代の名残だ。とにかく、抑えて抑えて憎しみの塊を心の中に飼い続け、何とかやり過ごしてきた時間が割と長い方だ。憎しみは誰かにぶつけることはとうとうなかった。初めは親だろう。あるいは学校の先生。よい子の仮面を被り続けることに、始めは親を喜ばせたいという純粋な気持ちであったはずなのに、いつしかなぜ自分はこんな不自由な檻の中に閉じ込められなければならないのだろうという憎しみが込み上げてくるようになり、それが漏れ出ないように細心の注意を払うようになった。一人でいる時は緊張が解けるのでとても楽だった。本心で誰かと交わることももちろんなかった。その誰かは憎しみを忘れさせてくれるありがたい存在ではあったけれど。今思えば、自分の人生の選択権を他人に預けて依存した挙句、自分の苦しみを他人のせいにして恨んでいるだけであった。

どこをゴールとして進んでいけばよいのか分からないまま、ただもがき続けてきたが、自分の中にあった憎しみはいつの間にかどこかへ行ってしまったようなのだ。これを許しているというのか。自分の憎しみを少し遠くから眺めることができるようになったようだ。視野を広げるために、空間的・時間的に広く捉えるとよいというが、自分の身の回りだけでなく、日本全体や世界や目に見えない世界のこと、あるいは歴史上の偉人やその背景に触れることで、小さくなったのだろう、自分の感情が。それと憎しみを引き起こす原因から、例えば窮屈な人間関係や職場環境から離れることで、人間は忘れるのだ。逃げるという選択。だから、徐々に克服してきているのだろう。自分の弱さが何であったのかということを振り返ることができるほどに。つまらない理由で子供の自分を拒絶する、大人の自分を解体すること。それは自分の弱さを笑い飛ばすことだ。失敗や能力の不足、それがどうしたというのか。たったそれだけのことではないだろうか。子供のように腹を抱えながら笑うことより大切なことなどあるだろうか。文章を書くのは面白い。