祈りとものさしとアートと

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選択と葛藤から生まれるのは革命か悲劇か

もう5記事目になる。あっという間に。少し空いた時間に書けるのはとても便利。頭に浮かぶ由無し事を書き綴る。

夫の仕事はとても素敵。夫を支える妻という構図は、男性社会を象徴するものなのだろうか。一抹の不安がよぎるけれど、余程の才人を除き、一般に人間はマルチタスクをすると効率が落ちる。専業で家事をすることは女性の権利を侵害されていることなのか。差別は人権を守るためにあってはならないことだ。差別に繋がる偏見も出来るだけ取り除くのが望ましい。ただ偏見は悟りを得た聖人でもない限り、日常の中で完全になくすことは難しい。

極端に言えば、虐殺や暴君による謂れのない制裁など、明らかに排除されるべきこと。専業主婦かキャリアウーマンか、性格や能力に違いがあるように、単なる選択の違いであってどちらが正しいかなど議論する意味のないこと。時代の社会情勢に影響されることはもちろんある。そこに争いの火種が生まれることは避けられないのだろうか。隣の芝は青く見える。比較して不安になる。自分の選択が間違っているのではないかと絶えず葛藤する。だからといって大多数の考えに同調して安堵することには疑問が残る。表面上は関係ないように振る舞っていても内面では解決していないこと。

何を選ぶかは最終的にはやはり本人の問題であり、社会的に道徳的に善であるといくら訴えても、悪を選ぶことを安易に罰するのはどうであろうか。どこまでも相対的。人の命を、心を、明らかに傷付けることですら。過去の非情な出来事が起こったから素晴らしい今があるという未来がないとは言えないし、おそらくそうなるに違いない。結局は、今何がよいかということを限られた人生の狭い視点から捉えることしか人間には出来ない。間違えたらそこから前を向いてやり直すしか。間違えるはずがないと思うことは傲慢以外の何者でもない。真も善も美も本来無一物。今ここで最善を選ぼうと誠意を尽くすこと。間違えないように努力することは素晴らしいが、間違えることは許されない、間違えるはずがないと思うのは傲慢である。一つ固結びが解けたような気持ちだ。