祈りとものさしとアートと

自分のものさしを発見する場所

今日の手紙

昨日は書きかけて途中でやめてしまった。毎日書くというのはなかなか難しそうだ。今日は映画をいくつか観た。「岡潔」とその妻の物語、山田洋次監督の「学校」という作品。内藤湖南が発表した「支那論」について取り上げた歴史番組も見た。将来行ってみたい海外についても調べた。

いつも動画を流して何かを聴くようにしている。気づけばこの習慣は父とそっくりである。寂しいからなのか、好奇心からなのか。ただ暇にしているのはよくないという意識は染み付いている。夫は自分も周りも幸せになる最善の選択を常に取っている。そんな夫を尊敬し誇りに思っている。

いつも私は何かを探しているような気がする。今が不幸というわけでは決してない。次のステージに行きたい。常にそう願っている。岡潔のドラマに出て来た「(花は紅、)柳は緑」という言葉の理解が少し深まった。柳はなぜ自分が緑かなどということは思わない。自然はただあるがままに存在している。タモリの「やる気のあるやつは去れ」という言葉がある。やる気だけのある人は物事の真ん中しか見ておらず、周囲にある面白さが見えない。このパズルを解こう。その日に集めた宝物(言葉など)は繋げて読み解くと、神様の手紙になっている。自分が何かを探している感覚、重要なのはその感覚をそのまま感じることであって、その解答を得ようとすることは天地自然の法則から外れている。”柳は緑”の在り方は、人間が神と分かれる前の感覚である。物事の中心(有形)には既に魂はない。形になって現れた時には既に本質は他へ移っている。柳は緑の在り方は、無形である。観念が現れる以前である。観念とは意味を持たせること。まとめると、観念が現れる以前のありのままの状態を知ること。それは何も考えないように意識することではなく、思ったことの全てを意味のないものとしてそのまま流し続けるということ。それが有形に囚われずに客観視することであり、次のステージに繋がっていく。そんな気がした。